チャイナ・ミエヴィルのブログから表現規制関連の記事

いま最もイケてるイギリス人作家(の一人)、チャイナ・ミエヴィルのブログ、rejectamentalist manifestoから。ヘイト、表現規制ネタ。非実在関連にも通じるところがある。ブログタイトルは「廃棄物主義者マニフェスト」とでもなろうか。

この辺りの話も踏まえておきたい。
http://twitter.com/hokusyu82/status/161696359261548544
http://twitter.com/hokusyu82/status/161689753132072961
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要は足を踏んでると指摘されたらまず最初になにをすべきか、ということ。


元記事:rejectamentalist manifesto

 戦いは終わった。文学が思想警察を打ち負かした。ベルギー最高裁判所が、哀れに鳴き声を上げる「政治的に正しい」軍団の悪巧みを打ち負かした。タンタンは発禁にならない。万歳!

 この件について交わされる意見に含まれる悪意、論点を内容によって省略する際の冷徹さ、今度の勝利を喜ぶ声につきまとう気まずさ、すべて驚くにはあたらない。これは、そもそもの始めから発禁についての話ではなかった。確かにMbutu Mondondoは、『タンタンのコンゴ探検』*2ベルギー人種関係法のもとで許容しないようベルギー最高裁判所に訴えた。しかしMondondoは同時にこうも訴え続けている。『タンタンのコンゴ探検』がイギリスと同様に、同書が書かれた文脈について注意を喚起するような警告を付けて出版されるのであれば(たとえ最も有害な部分をそのまま残したとしても)それで充分だと。Mondondoが求めたのは、『タンタンのコンゴ探検』が彼の顔に唾を吐きかけているということに対する、公的な認定だった。それがいつもの「究極の選択」に行き着いてしまったのは、Mondondoの訴えを受け容れ、出版物の責任を取ることに対する、出版社の強い拒絶のためだった。

 人権弁護士David Enrightは、『タンタンのコンゴ探検』を成人向けとして売るよう出版社に働きかける一方で、はっきりと、そして繰り返し、本の発禁を主張するつもりはないとしている。それでもなお偽善者たちは憤りを隠せない素振りで、Enrightが「検閲」を支持しているとして攻撃した。これほどの論点の取り違えは、故意によるものとしか考えられない。

(「言論の自由」「検閲」「発禁」について交わされる議論のうちのごく一部だけが、実際に<言論の自由><検閲><発禁>について議論している。何度も指摘していることだが、何かについて発言する法的権利を持つことと、発言に対して責任が無い人格権を持つことは、別だ。不当な発言に対して謝罪を求められたからといって、その発言をする権利が剥奪されたわけではない。そこのところは別にクソ複雑ってわけじゃない。こういう文脈での言論の自由の訴えは、謝罪要求や反論されること無しに戯言を垂れ流す権利を欲しがっているというだけだ。発言を行う法的権利を求めているわけではなく、当の発言についての討論や批判を終わらせたがっているだけだ。いつの間に人はこれほど分からずやになったのだろうか?国家が支える司法、それによって許容される範囲が、政治や倫理の地平に属さないということに対するこのような無理解は、不合理なまでに融通無碍だ)

 "Tintin au Congo"が人種差別的でないと主張する試みも僅かながら存在するが、作中の「コンゴ人」の恥ずべき見世物行列、独りよがりな白人至上主義を前に、分はかなり悪い。ではなぜ、間抜けな・ギョロ目の・分厚い唇の・一貫性のある文章を満足に綴れない・2足す2も計算できない・白人少年の飼い犬を"big juju man"として崇拝する「コンゴ人」の孕む人種差別性は不適切でないとされたのだろうか?

i)視点は不適切だったと認めるが、人種差別であるかどうかの質問には答えない。

 「良いことをしたがる(どころか混乱し切った根拠のもとに良いことをする)」リベラルに反対する傾向があると自認するあるコメンテーターは、『タンタンのコンゴ探検』が「衝撃的なまでに侮蔑的かつ無自覚」であると認めざるを得なかった。しかし、作品が人種差別的かどうかという肝心の質問に回答することは避けた。同様に、Telegraph紙のGuy Staggsは「『タンタンのコンゴ探検』は悪感情を引き起こすと運動家たちが主張している」ことだけを強調する。たしかに運動家たちはそう主張しているし、それを聞いた人は、主張がこの問題に即して妥当なものかどうかが気になるだろう。しかしStaggsは、妥当性を検討することもなく、人種差別についての質問は無視したまま、ただ気軽に『タンタンのコンゴ探検』が「あまり良い本ではない」と認める。

まるでそれこそが問題であるかのように。(この―人種差別ではない、良くない本というだけ―考え方は、例の「ちびくろサンボが人種差別なはずはない子供の頃に読んで大好きだったしサンボがヒーローだって分かってた」の邪悪な双子だ。別の変奏として「私は性差別主義者ではない何故なら男より女のほうが好きだからだ」「人種差別じゃないリズム感がいいのは良いことじゃないか」などもある)

ii)ベルギー最高裁判所の判決と同じように、本が「時代を反映している」と主張する。

すべての差別主義(男女差別、同性愛嫌悪、等々)のためのこの超ありふれた弁護については二つの興味深い論点が存在する。一つめは、それが歴史的な誤魔化しに過ぎないということだ。この類のアイディアは、すべてのアイディアと同様、すでに議論されている。確かに考え方の主流は変化し、力の均衡もまた変わっていくが、人種至上主義に反対する声が無かったというのは嘘だ。当時の人々全員がタンタンがするようにコンゴについて語ったというのは、たとえばFelicien ChallayeやAlbert Londres、または植民地主義が「暴力的な侵略に依拠し、アジア・アフリカの人々の従属を制度化する」と1907年の会議で宣言したフランス社会主義運動などに対する名誉棄損だ(彼らに対する政治的批判はあるにせよ)。

 二つめは、たとえタンタンのような姿勢が「時代を反映してい」て、当時主流だった考え方を反映しているとしても、だからどうした?姿勢とは変わるものだ。闘争、思想のぶつけ合いの結果として。ここで問われているのは、人種差別的な"Tintin au Congo"が人種差別的であるかどうかではない。人種差別的である理由は、部分的には、当時は白人至上主義が批判されることが少なかったからかもしれない。これはつまり我々が当時の人間でなくて幸いだった、ということではないか。我々は現代に生きている。そして、2足す2も計算できないと思われていた者たちによる抗議が、この手のクソがクソでしかないという認識を現代に生きる我々に強制してくれた。今日では、クソをクソとして認識する「一連のシナプスは、黒人解放、LGBT解放のための大衆運動によって形成された。運動はたくさんの人々、特に白人の異性愛男性に考えるきっかけを与えた

iii)エルジュが人種差別主義者でないと主張する。

 ははあ、意図。この、真偽不明の、空虚な、免罪符。これはベルギー最高裁判所の弓の、かき鳴らされる2本目の弦である。芸術家が人種主義者ではなく「脅迫的な、敵対的な、下劣な、屈辱的な環境を作り出す」意図がなかったと憤慨とともにされる主張。

 この論法を採用する者たちにとって有利な点は、芸術家が差別主義者であるにせよないにせよ、どちらも完全に証明不可能ということだ。そしてこの点は、ある人物の本心からの意見がどうあれ、その人物の著作物、言行に注目することが重要とされている理由でもある。その人物が何を思ったか、誰であるかに注目するのではなく

 MondondoとEnrightがしたことは正にそれだった。彼らは、問題の本が人種差別的だと訴えた。なぜなら問題の本が人種差別的だから。さて、エルジュがなにを意図したかは措くとして、『タンタンのコンゴ探検』のミンストレルショー*3もどきは「屈辱的」な表現だろうか?この質問にイエスと答えない者は、愚かでなければ邪悪だ。

 加害者の文化を被害者のそれに変えてしまうような不合理な誇張法が存在する。Staggsはこの問題の論点をずらそうとして、人種差別という「切り札」が「私たちの伝統文化のうち当惑を引き起こすようなものであればなんでも掻き消す」ために使われていると唱える。「掻き消す」、確かに。トロツキーに警告シールを貼り、本屋の『もりでいちばんつよいのは』*4の隣に置かないようにすることでスターリントロツキーの存在を掻き消したことを、だれが忘れられようか*5タンタンが消えてしまう。急げ、燃える本のイメージを呼び起こせ!運動家たちがタンタンを"Persepolis"と"Sandman"*6の隣に並べたとき、私は自分が多少不安だったが、自分はタンタンでなかったから何もしなかった…。*7

 Staggsは、単に本の書かれた文脈を示すどころか神聖なる原典を実際に改変しようなどと考える者に対しては、当然厳しい態度で臨むだろう。これこそ思想警察への降伏を意味するからだ。たとえば、ええと、初版から数十年も経ってから自分の初期の作品を恥じ、(あたかも新しい知見の光の下で恥ずべき過去の作品に立ち戻ること文明的なことであるように)改訂と書き直しを行ったエルジュとか。たとえこの書き直しがまったく不適切で、人種差別表現だけでなく狩りのシーンを気にして行われたものだったとしても。

 「文化のうち当惑を引き起こすようなものであればなんでも」というStaggsの言葉には、また別のバカみたいな言い分―滑りやすい急坂―が埋め込まれている。もしこれが改訂されたら、警告文を貼られたら、別の棚に並べられたら、それで最後、「当惑を引き起こす」可能性がある「私たちの伝統文化」すべてが脅威にさらされ、最後には弾圧されるという考え(そのような「当惑」、もしくは怒りが正当化されるかどうか、という問いはまたもや回避された)。

 誰も彼に的外れであると、指摘しなかった考えだ。実のところ、ここで示唆されたのは、どちらかというと、物議をかもすようなアートの場合、ある状況でなにが適当/不適当かについて思慮深い討論が行われる、ということだ。Mondondoは、(アフリカ人がどのように描写されているかに関わらず)他のタンタン作品、または(人種差別が構造に深く根を下ろしているような)その他の古典作品を自分の訴えに持ち出すことはなかった。もしそういった作品が問題になれば、それぞれの作品の価値について議論することになるだろう。滑りやすい急坂などない。

 もちろん、難しいケースや、白黒つけられない領域はあるだろう。当然だ。しかし我々は知的な人間だ。なんとかなるだろう。現代のデジタル・アーカイビングの時代に、記録から失われ、「掻き消」される原典などなくなるだろう。『ファンタジア』に出てくる黒人の子供(Pickaninny)ケンタウロスのSunflower*8は、ディズニーの努力に反して、忘れられていない。アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』の原題『十人の小さな黒んぼ』*9もそうだ。そして、こういったいかがわしい表現を二度と使うべきでない、という者もいない。ここでの質問は、それをどうするか、だ。尊大さ、懐古趣味、怒りと敵意は残念ながらここでは妥当ではない。

 実のところ、Staggsの「すべてが弾圧される」という主張は戯言であるだけでなく、可逆的でもある。Staggsが敵方に負わせたがっている全体主義のロジックは、Staggs本人にこそ適用される。Mondodoはすべての屈辱的な表現を掻き消すことを求めなかった。しかしながら、Staggsは、どれほど不快な表現であろうとも、書かれた文脈についての注意を付記されることなく、まして、たとえ確かな文脈があっても改訂されないべきだとしている。Staggsこそが全体主義者である。彼の論理に従うならば、『ファンタジア』を観たすべての黒人の子供は―すべての子供は―ショックを受け(警告も許されていない!)、Sunflowerの描写に苦悩し、本屋に入れば自分たちを黒んぼ呼ばわりするベストセラーのタイトルに出会わなければならない。

 これは、子供たちの日常の生活を慮るよりも、人種差別的なテキストに対する冷徹なまでの忠誠を優先するという、不思議に堕落した倫理だ。別の言い方をするならば「知ったことか、お前らなんぞより、こっちの小っちゃい黒んぼ人形のほうが大事なんだよ

 これは古いテキストについてだけの話ではない。例として、最近また取り上げられるようになった、ゴリウォーグ人形*10がある。いまゴリウォーグは、「ゴリウォーグは戻ってきた」と主張する一部の才能ある/ヒップな芸術家たちにより、若い黒人男性に対する奇妙な/頑なに続けられる嘲りではないものとして、扱われている。あたかも黒人の子供をゴリウォーグと呼ぶ人種差別主義者がもはやいないかのように。

 これは子供たちについてだけの問題ではないが(大人にも子供たちと同様に、周囲の文化に辱められない権利がある)、やはりそれでもまず子供たちの問題だ。Mondondoはまず自分の幼い甥を心配して行動を起こした。Enrightは、彼の子供たちが悪意に歪んだ鏡に映る自分たちの姿を見なくて済むようにと考え、問題の本を置く棚を移すように求めた。まず考え始めるにあたって、こういった基準を採用するのは、それほど悪いことだろうか?子供たちの人生を苛酷にする(PDF)ような文化的な中傷を無害なものとして扱わないように提案することは?
テレビでJimmy Carr*11の「ジプシーの体臭」ネタが出たことで、ジプシーの子供がその翌日に学校に行くことは簡単になっただろうか?それとも難しくなっただろうか?Channel 4の印象的な宣伝ポスター*12の下、バスに乗るのはどうだろう?ある日コンゴ人の子供が、ミッフィーの隣に並んだ警告文のない"Tintin au Congo"にたまたま出くわしたとして、それはその子にとっていい日だろうか?悪い日だろうか?

 既に立証したように、これは検閲についての問題ではなく、発禁をめぐる問題でもない。思想統制でもなく、「政治的正しさ」の暴走でもない。これが、最低限度の、クソ基本的な礼節、文明の問題だとしたらどうだろう?

 Enid Blyton*13の掲示板にいる戦士たちは、Nで始まる単語、なかんずくゴリウォーグが「政治的に正しい」軍団によって奪われようとしていることを嘆いている。エルジュを厳格に掩護する者がエルジュに怒りを向けるべきであることと同様、Blyton衝撃隊*14は、Blytonの娘たちを忌避しなければならない。なぜならば、彼女らこそが、思い出深い人種差別のカリカチュアを除こうと決めた張本人だからだ。

 「80年代に、私と妹は、いま私たちが生きる多文化社会を踏まえ、ゴリウォーグは本から消えるべきだという結論に達しました。ゴリウォーグが一部の人々をパロディにしたものと考えられるならば、いまの時代にゴリウォーグを使うのは正しいことではないと感じたのです」

 考えが偏っている?事後的正当化?場当たり的対応?そのいずれかもしれないが、それを我々が知ることはできない。そして、そんな鼻息荒いタンタンの擁護者や中傷復古主義者よりも、Blytonの娘たちが30年前に表明した非政治的で礼儀正しい隣人愛のほうが人々の感情を思いやり、文化の問題/政治についての実際的な理解を示しているということは、特筆すべき―恥ずべき事実である。

2012/2/26(日)

*1:その他参考: http://twitter.com/yanegon/status/161514147459244032 http://twitter.com/hokusyu82/status/161685895202881537 http://twitter.com/flurry/status/161686594728886272 http://twitter.com/hokusyu82/status/161688127499550721 http://twitter.com/hokusyu82/status/161692543841607680 http://twitter.com/hokusyu82/status/161695638520741888

*2:英題"Tintin in the Congo"

*3:19世紀アメリカで流行した、黒人を風刺した出し物

*4:原題"The Gruffalo"

*5:スターリンは政敵トロツキーを追放した後、トロツキーに関する記録を文書写真に至るまで徹底的に抹消した。

*6:"Persepolis" Marjane Satrapi著、"Sandman"はニール・ゲイマン原作、ともにグラフィックノベル

*7:ニーメラーの警句のもじり

*8:もともとの"Fantasia"には白人の雌ケンタウロスの蹄を黒人の雌ケンタウロスが磨く場面があった。

*9:原題"Ten Little Niggars"

*10:19世紀末から欧米で親しまれてきた黒人の子供を戯画化した縫いぐるみのキャラクター

*11:イギリスのコメディアン

*12:Channel 4の人気ドキュメンタリー"Big Fat Gypsy Wedding"の宣伝ポスターが差別的であるとして物議をかもした。

*13:イギリスの絵本作家。ゴリウォーグを自身の作品に登場させている。

*14:衝撃隊 Stoßtrupp(Shock-troop)はナチス親衛隊の前身。